西豊永小中学校(大豊町)  にしとよなが
  旧西東豊永村立西豊永小中学校として設立、1954(昭和29)年に中学校が豊永中学校に統合(その曽大豊中学校に再統合)、小学校も1970(昭和45)年に豊永小学校に統合(その後大豊小学校に再統合)
 

年 度 S30 S35 S40 S44 S45
児童数 265 284 199 163 統合

 JR土讃線豊永駅付近から吉野川対岸を見ると石垣と大きな木が見える。そこが西豊永小学校跡地である。豊永駅のすぐ南にある大豊小学校からは直線距離で500m少々ではないかと思われる。市町村合併による学校再編再統合が繰り返され、なかなか複雑な経緯を辿っている。JR豊永駅で停車した際などに「ずいぶん大きな屋敷跡だな」と思っていたが学校跡と知ったのはこのホームページを作り出してからである。
西豊永小学校跡(大豊小学校校庭より撮影)

 訪問は2005(平成17)年3月。学校の歴史は連火にあった連火尋常小学校から始まっている。連火尋常小学校の設置時期ははっきりせず、1882(明治15)年から1885(明治18)年の間だと言われている。場所は現在の小学校跡地より標高で100mほど上になり連火地区と桃原地区の境で、天坪村から来ていた前田という医師が授業を行っていたらしい。現在そこには学神天神様が祀られている。その後桃原地区に移転し、桃原尋常小学校となったことがわかっている。現在地の川戸に移転したのは1913(大正2)年に西豊永尋常高等小学校として設置されてからである。
 戦後の教育制度となってからは西豊永中学校が併設された。しかし昭和の大合併で大豊町となることが決まり、即座に中学校再編が決定した。このため1954(昭和29)年と早い時期に中学校が新設の豊永中学校に統合された。豊永中学校も再統合で今はなく、跡地には豊永小学校(再統合で大豊小学校に改称)が建てられている。最盛期の1959(昭和34)年には9学級313人を数えていたが、校舎の老朽化と過疎化の進行で1970(昭和45)年に豊永小学校に統合された。
 統合後は1973(昭和48)年から1995(平成7)年にかけて「大豊園」という老人ホームが建設されていた。卒業生の方もいたそうで、幼少の時期と老人となってからをここで過ごした人も多かったそうだ。その後は川戸部落の集会所として利用されている。校門跡と川戸部落からの階段が残っている。

校門跡