西川中学校/奥西川分校(香北町)  にしかわ/おくにしかわ
  学校組合立大忍中学校奥西川分校として設立、西川村立に移管して西川中学校になり編入で美良布町立さらに大宮町立に移管後廃校
 

 国道195線を東に走り香北町の中心地である美良布を過ぎてから「佐敷」の看板を目印に右折して県道30号香北赤岡線を南進、3kmほどで旧西川村奥西川地区になる。さらに2kmで左下に西川小学校のプール跡を見て県道224号奈良香北線との分岐を過ぎたすぐ先の左手に小さな広場があり、簡易郵便局と集会所・消防団屯所が見えてくる。そこが西川中学校校跡地になる。



 昭和の合併時に4市町村に分かれての分村合併(うち3市町村は編入、物部村は対等合併)という立場のせいか、学校だけに限らず旧西川村の詳細はよくわからない。かろうじて村史が高知県立図書館に蔵書としてあるが一冊のみなので一般貸出不可、公立図書館への資料貸出も不可でまだ参照できる機会がない。香我美町史には本校の所在が記載されており、西川村分村に際して香北町に移管したとある。また香我美中学校沿革史にも設立から移管までの経緯が記載されている。
 元々は口西川にあった西川中学校に通学していたが、西川中学校が1950(S25)年に設立された組合立大忍中学校(現在の香我美中学校)に統合され、遠隔地となったため奥西川分校として設立されたのが始まりである。そのわずか2年後1952(S27)年には西川村に移管され西川中学校と改称されたが、これは組合立化による効率運営と新たな分校設置が相反するとして他の組合出資者である町村からクレームが出たためらしい。さらに1954(S29)年西川村が分村編入となり奥西川地区は美良布町に編入されたので美良布町立西川中学校となった。またまたさらに翌1955(S30)年には美良布町が暁霞村との合併で大宮町となったので再び改称して大宮町立西川中学校となった。これで落ち着くかと思われたが、1961(昭和36)年に大宮町と在所村が合併し香北町となった。この際の協議事項の中に学校統合があり、大宮小学校発足が決定していたが西川小学校は存続となり西川中学校が大宮中学校に統合されてその短いながら複雑な歴史を閉じた。
 旧西川村は自動車が主流になる遙か以前の明治時代に誕生している。当時は尾根筋に往還道があるのが普通であり、その往来に沿って西川村があった。分村になった経緯の詳細は不明であるが現状を見るにつけやはり編入合併というものはするべきではないと思う。高知県内でも他に数カ所あるが、いずれも経費削減等で支所閉鎖や議員削減ほか住民サービスの効率化という名目で真っ先に切り捨てられるのは編入地域である。
 この地域も既に山林放置と農作地放棄が進んでいるのは間違いなく、車で走っているわずかな時間の間に鹿を5匹も見た。猪の掘った跡も県道沿いにいくつかあった、今となっては児童生徒は一人もいないこの地区もいずれ人間が負けていくだろう。しかし杉桧の人工林は自然に任せただけでは何も生まれない死の森である。