中追中学校(伊野町) なかおい へき地級2(1978)
旧神谷村立中追中学校として設立、合併で伊野町立改称後、1988(S63)年に休校
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1978(S53) | |
在籍生徒数 | 54 | 42 | 48 | 17 |
伊野町中心部から国道194号線を仁淀川沿いに走り、土佐和紙工芸村の先で勝賀瀬橋を渡り右折する。仁淀川支流の勝賀瀬川を上流へ向かい中追渓谷の手前で成山方面への細い山道へと入る。中追渓谷の吊り橋を見ながら看板に従って中追小学校へと向かう。急な谷の向こう側にへばりつく建物が中追小中学校である。中追中学校は1947(昭和22)年に神谷中学校分校として設立され、1951(昭和26)年に独立した。1988(昭和63)年に休校となったが、20年近く経つ今でも廃校とはなっていない。併設の中追小学校も2007(平成19)年に休校となった。
谷間に見える中追中学校校舎
訪問は2004(平成16)年2月、小中併設だったため現在も小学校として活用されているので職員室に向かい、写真許可をいただく。先生に伺った話では現状では現在の小学校2年生の下で児童が途切れるが比較的Uターン・Iターンの多い地域なので何とも言えないとの事であった。作者は1979(昭和54)年に鏡村から蟹越を経由して中追に出てさらに樫ヶ峠を越えて吾北村に抜ける古道を自転車で走破したことがあった。その際にこの中追小中学校を訪れて校庭の隅でテントを張り、一夜を明かしたことがある。かれこれ25年ぶりの再訪となるわけだ。
この樫ヶ峠越えルートはかつて吾北方面から伊野・高知への最短ルートとして利用されていた。仁淀川沿いに車道が開通するまでは人馬の往来がひっきりなしだったという。作者が通った際に最上流部の去山で聞いた話では昭和30年代初めまでは人通りがあったそうである。今は藪に覆われ、かつて峠で迎えてくれた地蔵だけが山中でひっそりと時を刻んでいるのだろう。写真を撮ったあと、日没まで多少時間があったので去山まで車を走らせてみた。あの時、いろんな話を教えてくれた上に昼食までご馳走してくれたお爺さんのいた家は廃屋になっていた。無人となってそれほど時間が経っていない感じだったが、生きていれば80代後半だったはず、山を下りてしまったのだろうかそれとも鬼籍に入られたのだろうか。去山付近も藪が増え、かつてところどころに明瞭にあった旧道は判別がつかなくなっていた。