中追小学校(伊野町)  なかおい   へき地級2(1978)
  旧神谷村立中追小学校として設立、合併で伊野町立改称後、2007(H19)年に休校

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53) 1998(H10) 2004(H16)
在籍児童数  93 106  68  19  10 


 

 伊野町中心部から国道194号線を仁淀川沿いに走り、土佐和紙工芸村の先で勝賀瀬橋を渡り右折する。仁淀川支流の勝賀瀬川を上流へ向かい中追渓谷の手前で成山方面への細い山道へと入る。断崖を走るスリリングな道を走り中追渓谷の吊り橋を見ながら看板に従って中追小学校へと向かう。急な谷の向こう側にへばりつく建物が中追小中学校である。小中併設だったが中追中学校は1988(昭和63)年に休校となった(現在も休校中)。


 訪問は2007(平成19)年9月、中追中学校の取材で訪問して以来となり3年半ぶりとなる。当時はまだ小学校の統合はまったく話題になっておらず、当面の児童入学数について職員室で話をした記憶がある。当時先生に伺った話では現状では小学校2年生の下で児童が途切れるが保育園児もおり、比較的Uターン・Iターンの多い地域なので何とも言えないとの事であった。帰路途中で勝賀瀬小学校にて確認したところ、結局この児童のあとはいなくなったようで、休校時点での児童数は一名(結果的にはこの一年後に勝賀瀬小学校自体も休校、正直何が何だかである)。
 小学校に至るまでの途中あちこちに児童手書きの案内板がいくつも見受けられる。仁淀川沿いに現在の国道が整備されるまでは中追から樫ヶ峠を経て思地に至る山越えルートは人馬の往来が絶えなかったそうである。中追からは勝賀瀬に出るか成山から伊野町中心部に出る、あるいは蟹越えを使って鏡村へ出る3つのルートがあった。いずれも車道の整備は大幅に遅れ、特に地元県議が太鼓判を押した蟹越え(高知市への最短ルート)に至っては車道ができたのが平成に入ってからとなった。主産業は楮・三椏の栽培と林業・炭焼きで、わずかな田畑で自家消費用の農作物を細々と作っていた典型的な中山間地域であった。高度成長期から過疎化が進み、時を同じくして町村合併で細かな行政の目はこの地域に向かなくなった。車道から離れた山上にあったいくつかの人家は既に訪れる人もないまま崩壊している。学校直下にあった中追渓谷の観光施設も経営不振で営業を停止、老人ホームとなっている。