組合立仁淀中学校(吾川村)  によど
  吾川仁淀組合立仁淀中学校として設立、1975(S50)年閉校

 吾川村大崎から国道33号線を愛媛県境へ向けて走り、国道439号線と別れて少し走った左手の川沿いに県立仁淀高等学校がある。かつてここには吾川村と仁淀村が組合を設立して運営にあたった組合立中学校が高校と隣接してあった。

生徒数 1945(S20) 1955(S30) 1965(S40) 1970(S50)
組合立仁淀中学校 S50年閉校

写真提供 高知県立仁淀高等学校 撮影時期1973((昭和48)年ごろ

上空から撮影した組合立仁淀中学校と仁淀高校

 訪問は2004(平成16)年の1月、作者はとうとう組合立仁淀中学校の写真を手に入れることができなかった。仁淀高校に問い合わせてみると開校40年記念誌があるという。中を見るとやっと上記の写真があった、左側が中学校で右側が高校になる。現在は体育館が建てられていてその面影は全くない。 閉校の理由はいくつかあるらしく、過疎化で生徒が減ったことと仁淀村の中学校再編問題というのが最大の理由だったらしい。閉校後、仁淀高校も改築されたため、写真の校舎はもう残っていない。
 この仁淀高校も元々は佐川高校の分校から独立した経緯がある。ところが平成に入り財政難もあって現在1学年2学級(40人定員)を維持できない高校は統合させるというのが高知県教育委員会の方針となった。真っ先に引っかかってしまったのがこの仁淀高校である。作者は安易にもならば元の分校に戻っての存続かなと思っていたら、分校の存続基準は1学年20人以上だと言う。現在仁淀高校の生徒数は60人足らず、つまり分校としての存続も危うい状態なのである。仮に仁淀高校が分校としても存続は不可能とされた場合、この地域で一番近い高校は佐川高校になる。通学という意味で考えた場合、実質はほぼ不可能になる。このことはこの地域にとって深刻な問題となるであろう。現在学校側も様々な手を尽くし、吾川村・仁淀村・池川町と手を組んで生徒の誘致に必死である。作者は仕事でこの学校に何度かお邪魔させてもらったが、大規模校にはない独特の雰囲気があり落ち着いた時間が流れていた。効率と数字だけで教育とその地域への効果は決して計れるものではない。多くの過疎地で学校というかけがえのない財産がなくなり、その地域も一気に寂れた。過疎が防ぎようがないのならば、最後の1人まで存続させる気概というのが本当の教育ではないのだろうか。