桧生原小学校(窪川町)  ひさはら
  旧窪川町立桧生原小学校から合併後1977(S52)年廃校

  1957(S32) 1958(S33)  1963(S38) 1968(S43)
在籍児童数 79  81  55  35 



 桧生原小学校跡へは窪川町中心部から四万十川沿いの国道381号線を8kmほど走る。やがて川口という集落があり、川口小学校が右手に見える。ここで国道と分かれて井細川沿いに北上すると左手に「農村婦人の家」が見えるが、そこが学校跡である。

檜生原小学校跡

 訪問は2005(平成17)年の10月、先に桧生原小学校が統合された川口小学校に立ち寄り現在生徒数を伺う。現時点で旧桧生原小学校校区から通う2名の児童がいるとのことであった。桧生原という名前からして山林のまっただ中と想像していたが、ここまでは川沿いに平坦な水田も目立ち、畑も多い。住民に聞くと校区には桧生原と折合の2地区があったが、桧生原は農業中心で折合は林業中心だったそうだ。窪川町の説明でも触れたが、元々折合地区は大正町に属していたが地形的に窪川町との結びつきが強く、戦後間もなく旧窪川町に編入されている。当時は折合に営林署の事業所があって川口から森林鉄道が走っていたそうだ。森林鉄道は1953(昭和28)年まであって、今日作者が走ってきた道はその軌道跡に作られたものだそうである。折合には営林署関係だけで30軒以上の家があって近隣から集う作業員や行商人などで賑わっていたという。今の折合には20人足らずの人がいる、もちろん児童は一人もいない。桧生原小学校の歴史は1897(明治30)年に設置された川口尋常小学校桧生原分教場から始まる。当時はもう少し上流の上奥谷という場所にあったが、1922(大正11)年に現在地に移転している。閉校時には22人の児童がいたと記録に残っている。
 校区内の人口は1960(昭和35)年頃が最大で442名、今は百人を少々越える程度。1950年代後半のピーク時には80人前後の児童がいたが、訪問時点で2人のみとなっている(何人かのお年寄りから戦前は百人を超えていたと聞いたが資料がなく不明)。その2人も訪問時には既に6年生となっており、来年の春以降校区内に児童はいなくなる。むろん幼稚園児もいないのでこの2人が当面最後の児童になるであろう。校庭跡には樹齢百年を超えると思われるモミジの古木があり、錆び付いてきたブランコたち遊具とともにその移り変わりをじっと見守っている。

校庭跡を望む

桧生原小学校校歌
1 井細の流れ清く澄み 光さやかな朝のまど みんなで仲よく元気よく 学ぶよ我ら桧生原校 夢と希望がわくところ
2 さつきの里に花ひらく かがやく歴史うけついで みんな明るく手をつなぎ 学ぶよ我ら桧生原校 理想にむかって伸びてゆく
3 恵みゆたかな土の香に 若き力のわくところ みんな正しくすこやかに 学ぶよ我ら桧生原校 未来の花が咲くところ