東谷小学校(いの町=旧吾北村)  ひがしたに
  旧小川村立東谷小学校として設立、合併で吾北村立に改称後1976(昭和51)年に閉校 
   

1955(S30) 1963(S38) 1968(S43) 1973(S48)
児童数 89 77 57 31


 

 
 

 東谷小学校跡へは小川から県道を「川又」の標識に従って北進し、川又で三叉路を右に進む。川又から1キロほどで境谷地区となり右手の高台に学校跡が見える。現在は集会所になっているが校舎自体はそのままで、手前にはプールや教員住宅跡も残っている。正確な児童数推移は吾北村になってからの児童数しかわからなかったが、校区内複数の住民によると小川村時代には100名を越える児童がいたのは間違いないらしい。当時の校舎は一段下に建てられていたそうで、「一日中子供の声がしよった」そうだ。過疎化は著しく、校区内には川又・奥大野・仏堂・堂ヶ内・花ノ木の5集落があったが集落機能の維持が難しくなり。現在は川又・奥大野・仏堂の3集落に自治体制が変わっている。
 かつて国道194号線が開通するまでは高岩から小川経由で長沢までの森林軌道が敷設されていた。境谷は複線で列車の交換所となっていて賑わっていたそうだ。軌道跡は学校の南側の谷向かいの上部に残っているが間もなく林道が開設されるという話である。終戦頃までは旧本川村の寺川・越裏門地区からの往還が通じており、川又に今も残る商店まで買い物に来る人が多かったそうである。また高知市方面からの石鎚参りの往還としても利用されており、奥大野には百人ほどが泊まる季節宿屋もあったそうである。牛馬が車を引いて山越えをしているのが戦前までで、その後は国道194号線が開通したこともあって急速に往来は途絶えた。