馬路村 【廃校小学校】なし
【廃校中学校】なし
【休校小中学校】なし 小0中0合計0校
【現存小学校】馬路 魚梁瀬
【現存中学校】馬路 魚梁瀬 小1中1合計2校
Thanks 馬路村教育委員会
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馬路村は高知県東部にある総面積166.52平方キロメートルの山村で、馬路地区は安田川水系に、魚梁瀬地区は奈半利川水系に属している。魚梁瀬にはロックフィル式の魚梁瀬ダムがあり、現在の魚梁瀬地区はダム建設により移転した丸山台地にある。総面積の96%が山林でそのうち国有林が75%となっており、村の総面積の72%が国有林という計算になる。高知県内でも屈指の年間降雨量を誇り、藩政時代から魚梁瀬杉の生産地として名高い。戦後からの伐採政策でかつての天然巨木はほとんど姿を消したが、今なお千本山などの一部にその面影を残している。木材輸入自由化のあと急速に経営が悪化していた国有林事業の中で魚梁瀬事業所は数少ない優良事業所として近年まで黒字経営であった。残念ながら2004(平成16)年に安芸森林管理署に統合されている。
1889(明治22)年に魚梁瀬村と馬路村が合併して現在の馬路村となった。昭和の大合併では西側に隣接する旧東川村とさらに西隣の旧畑山村とともに新町となるか、安芸市の合併に加わる予定であった。この際は安芸市中心部からの直結林道の新設などの条件も出されていたが、賛否両論の激論の上、最終的に合併を見送っている。その後の旧東川村・旧畑山村の衰退ぶりを見る限り、この選択は正しかったと言えるであろう。
馬路村と旧東川村は1955(S30)年時点では非常に似通っていた部分が多い。面積は約160平方キロ、人口も2,800人少々とほぼ同じ規模の自治体であった。財政規模としては旧東川村のほうがやや大きかったようである。主産業の一つ、森林率は旧東川村が14,000ha足らずで馬路村が15,000ha少々、これも似たような数字である。ところが国有林面積となると旧東川村が5,000ha少々、馬路村が12,000ha足らずと大きく異なってくる。馬路村には2つの営林署が存在するが旧東川村には営林署そのものがなかった。馬路村の国有林事業は長い間黒字を計上し、雇用の場としても村を支え続けた。前述のように2004(H16)年に安芸森林管理署に統合され馬路村からも営林署が撤退したが、この違いは大きかっただろう。産業基盤のあるうちに柚子の導入や温泉施設の建設で地域内雇用を作り出した馬路村に対し、安芸市合併直後こそ地域振興策が講じられたもののその後は中心部への振興策がほとんどとなり、周辺部の旧東川村は打ち棄てられたに等しい状態であった。安芸市の項目で説明しているが結果としては旧畑山村・旧東川村は壊滅的な状況に陥っている
ダム工事と林業で賑わっていた1960(昭和35)年の人口3,386人はその後の過疎化・少子化によって現在は1,200人を割っている。しかしながら特産品として村挙げての売り出しを
行っている柚子や木工品などで馬路というブランドを確立しており、山間部としては健闘しているほうである。このためJAの広域合併には参加せず、JA馬路として単独自立を貫いている。児童数はピーク時の462人から81人となっているが、他の地域と比較しても減少率は少ない。前述の柚子関連産業などで親の就職先をある程度確保できているというのが一番の理由であろう。
学校は元々魚梁瀬地区と馬路地区にそれぞれ小中学校があるのみで統廃合は行われていない。魚梁瀬営林署が西川・中川両事業所を設置していた時代には分校も検討されていたというが、最終的に営林署側でスクールバスを配置した記録が残っている。馬路村独自の児童生徒数維持の取り組みとして高知県内でも最初に始めた山村留学は現在も続いており、4校併せて100人を越える児童生徒が在学している。
平成の合併ではまず2002(平成14)年夏に東洋町・田野町・安田町・北川村・馬路村・安芸市・芸西村との8町村で協議を開始した。室戸市のみを外したうえに広域すぎる協議ではないかという懸念があったがまず香南6町村とのかけもちだった芸西村が離脱、これは地域的な問題もありやむを得なかった。続いて2003年5月までに安芸市・馬路村・東洋町が離脱、わずか半年で4町村になってしまった。前述のように馬路村は柚子で築いた馬路村ブランドの消滅に強い危機感を持っており、加えて昭和の合併以降に隣接する旧畑山村・旧東川村(ともに現安芸市)や北川村北部が著しく衰退する様を半世紀にわたって見てきた事もあるだろう。特に旧東川村・旧畑山村とは昭和の合併時に一時はともに安芸市へ合併する予定であった。この時も馬路村では賛否両論の激論の上、最終的に合併を見送っている。
なお最終的に残りの4町村でまとまるかに思われた合併は、2004(平成16)年6月に田野町のアンケートで反対多数となり、田野町が離脱。その後残った3町村で合併協議を進め、調印までこぎつけたものの最終的には北川村の住民アンケートで否決されたことが原因で合併には至らなかった。