栄喜小学校(宿毛市) さかき へき地級1(1978)
旧小筑紫村立栄喜小学校から小筑紫町立に改称、合併で宿毛市立栄喜小学校に改称、2011(H23)年小筑紫小学校に統合
児童在籍数
1957(S32) | 1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1978(S53) | 1998(H10) | 2004(H16) | 2008(H20) | |
栄喜小学校 | 165 | 157 | 77 | 39 | 20 | 14 |
栄喜地区は宿毛湾東南岸(宿毛市南西部)にある漁村集落である。古くから漁業で栄えていたらしく、1589(天正17)には「幡多郡榊浦地検帳」として検地面積7町2反余・屋敷数19の記録が残されている。1743(寛保3)年の郷村帳では戸数13人数93という記載があり、江戸時代から明治時代にかけてはおおむね100人を越える集落で当初は榊浦村という名称であった。リアス式海岸の奥という地形のおかげで1707(宝永4)年の宝永大地震では津波による大被害を受けて壊滅状態になった記録も残っている。1813(文化10)年の南路志には「榊浦村、今では栄喜村と書く」とあり、いつの間にか栄喜という名称になったようである。1889(明治22)年には小筑紫村の大字となり、1950(昭和25)年に小筑紫町、1954(昭和29)には宿毛市の大字となって現在に至っている。小筑紫で国道321号線と分かれてから県道357号安満地福良線を約3kmほど走ると栄喜で、この間は完全二車線化された快適な道路である。
栄喜集落(学校は中央奥)
訪問は2011(平成23)年の4月と2016(平成28)年の3月、2回にわたることとなった。最初の訪問時は付近の道路工事の関係車両駐車場になっており、まともに写真を撮れる状態ではなかった。
校舎
体育館(初回訪問時)
学校の歴史は沿革史によると1904(明治37)年の小筑紫村小筑紫尋常小学校栄喜分教場設立となっている。ややこしいのだが宿毛市史の記録では1897(M30)年、角川日本地名大辞典には1889(M22)年に既に簡易小学校があったと記載されており、栄喜村時代の記録が不明なのだが明治初期から学校が存在していた可能性が高い。小筑紫村発足からの記録で見ると1897(M30)年に分教場、1934(昭和9)年に栄喜小学校として独立校となっている。その後は小筑紫町立→宿毛市立と改称され、2011(H23)年に小筑紫小学校に統合されてその歴史を閉じている。
栄喜集落まで海岸を二車線で快適に走ってきた県道はいきなり狭くなり、離合もままならない状態で小学校は県道沿いに500mほど南進した右手にある。宿毛市総務課(廃校となっているので教育委員会管轄ではなかった)には電話で敷地内への立入を了承してもらっているのでそのまま校舎脇に車を停める。正面玄関脇には閉校記念碑が建立されており、その横には沿革史と校歌が記載されている。最盛期の1950年代後半には150人を越える児童がいたらしいが、現校舎は1969(S44)年に落成しており当時の木造校舎ではない。
1960年代前半からはハマチの養殖が盛んになり高知県内でも屈指の水揚げ量を誇っていたそうで、現在はハマチ以外に鯛の養殖も行われている。農業は自家消費用に細々と行われていただけで、あとは同様に自家消費用の炭焼きを行っていた程度。環境省のサイトによると漁村体験in栄喜というプログラムで実行委員会を立ち上げて観光客の受け入れ体制を整えている。
関連サイト 宿毛市ブルーツーリズム推進協議会栄喜実行実行委員会
プール
閉校記念碑
栄喜小学校校歌 1978(S53)年制定 作詞:高木良輝 作曲:金子和孝
1 恵比寿が鼻で波荒くだき
ただよう波に幼魚もはねる
明るく育つ 学び舎は
のどかな里に そびえ立つ
われらの栄喜小学校
2 亀が森から そよ風吹けば
野辺の稲穂 黄金になびく
元気に育つ 学び舎は
豊かな里に そびえ立つ
われらの栄喜小学校
3 桜と紅葉 伊吹の樹々は
幾百年の歴史をしめす
仲良く育つ 学び舎は
平和な里に そびえ立つ
われらの栄喜小学校