県立仁淀高等学校(吾川村=現仁淀川町) によど
県立佐川高等学校仁淀分校として開校、のちに独立校となるが2011(H23)年閉校
仁淀川町役場のある旧吾川村大崎から国道33号線を愛媛県境へ向けて走り、国道439号線分岐からさらに少し走った左手の川沿いに県立仁淀高等学校があった。なおかつてここには旧吾川村と旧仁淀村が組合を設立して運営にあたった組合立中学校が高校と隣接してあった。
生徒数 | 1948(S23) | 1968(S43) | 1978(S53) | 1988(S63) | 1998(H10) | 2011(H23) |
仁淀高校 | 22 | 252 | 129 | 76 | 65 | 14 |
(仁淀川を挟んで国道439号線から撮影)
訪問は2011(平成23)年10月、閉校より半年経ってからの訪問となった。2000(H12)年頃から財政難などから県立高等学校の再編問題が浮上し、一学年二学級定員(一学級40名x2=80名)を満たさない学校がその対象となった。紆余曲折の末、最低条件として一学年一学級定員を3年連続で割り込んだ場合は閉校という方針が打ち出され仁淀高校と大栃高校(物部村=現香美市)がその対象となった。せめて20名を上回る定員が入学していれば両校ともに分校としての存続が可能だったかもしれないが、既に一学年当たりの在籍生徒数が20名を割り込む状態が続いており閉校となった。皮肉なことに閉校を決定した最終責任者の高知県教育委員会の大崎澄博教育長(当時)は旧池川町出身でこの仁淀高校の卒業生であった。大崎氏自身も当時の県議会答弁で「自分の母校をなくす決断をするのは断腸の思い」と語っている。
校区は現在の仁淀川町、かつての池川町・吾川村・仁淀村となる。校区内にかつて21小学校6中学校があったが、相次ぐ統合で5小学校3中学校に減っている(組合立仁淀中学校は統合ではなく解散して互いの村立中学校設立となっているが一応学校数にカウント)。仁淀高校から国道33号線を約10kmほど西進し、愛媛県側に入ったあたりに中津・休場などの集落があるがこの付近からも越境通学している生徒がいた。柳谷中学校はすぐ近くなのだが、高校となると久万町(現久万高原町)の県立上浮穴高校まで通うしかないので近くにある仁淀高校に入学していた。
(国道33号線から見下ろした仁淀高校)
学校の歴史は1948(S23)年の佐川高等学校定時制仁淀分校設立から始まる。その後定時制のまま1956(S31)年に仁淀高校として独立し、1965(S40)年には全日制高校となった。1960年代後半からは常に200名を超える在籍記録が残っておりピーク時には250名を超えていた。その後は周辺地区の過疎化進行とともに減少し、1980年代以降は一学年当たり一学級定員を維持できなくなっていた。63年間の歴史で2106名の卒業生を送り出している。正門北側にあった塀を撤去して広場が作られており、その片隅に閉校記念碑などが建立されている。
一時期隣接されていた組合立仁淀中学校とあわせるとピーク時に500名を超えていたらしい学舎の跡は現在三軒の民家が残るだけの静寂な場所となっている。
上空から撮影した組合立仁淀中学校と県立仁淀高校
写真提供 高知県立仁淀高等学校 撮影時期1973((昭和48)年ごろ