西又小学校(土佐山田町) にしのまた
旧暁霞村立暁霞小学校西又分校として設立、独立後に合併で大宮町立に移管後、編入で土佐山田町立となり1972(S47)年に廃校)
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | |
児童数 | 12 | 18 | 17 |
西又地区への一般的なルートとしては高知市方面からは国道33号線JR繁藤の先で右折するのが最も近い。あとは香北町日の御子から河野を経て峰越しの林道(ほぼ完全舗装)を使うしかない、いずれにしろ乗用車での走行が可能である。この地区は旧暁霞村の西半分にあたり、昭和の大合併では二度にわたる併合と編入の歴史を持つ。1955(昭和30)年に旧暁霞村は旧美良布町と合併し、大宮町と改称した。いっぽうで西又地区と地理的にも経済的にも結びつきの強かった繁藤地区は旧天坪村に所属し、大杉村や豊永村とともに大豊町へ併合されるはずであった。ところが住民投票によって旧天坪村は分村合併を選択し、繁藤地区は新制土佐山田町へ併合となることが急遽決まった。大宮町はさらに次の合併構想が進み、在所村と合併して香北町になることが決まっていた。そこで住民から同じ合併なら土佐山田町への分離編入を希望する声が高まり、1960(昭和35)年に土佐山田町に併合された。
西又小学校跡
訪問は2004(平成16)年12月。西又小学校校区は西又と西谷の2つの集落で成り立っていたが、現在西谷には誰も住んでいない。最盛期には両集落で百人を越えていた人口も西又集落の10数名となり、70歳近い人が一番若いという。児童は1955(昭和30)年頃に20人を越えていたらしいが、当然今は一人もいない。
西谷には30年ほど前に麓宝園というレジャー施設があり、作者も小学生の頃に一度遊びに行った記憶がある。「土佐の軽井沢」というキャッチフレーズでTVCMもやり、一時は賑わっていた。西又地区出身の故富田睦氏が地元に雇用施設をという一念で作ったと聞いたが、石油ショックと重なり倒産している。資金繰りが悪化していた末期には暴力団絡みの人間が出入りするようになり、急速に終焉となった。しばらくは廃墟となり放置されていたが現在は大きな建物が取り壊され、管理用の建物が残る程度である。廃墟特有の都市伝説により幽霊スポットとして様々な噂が流れているが、自殺他殺を含めて少なくともここで死者が出た記録は残っていない。
前述の富田氏はこの他にも道路の整備にも心血を注いだ。繁藤と西又間の道路は1920年代に馬車道として建設され、交通手段が自動車に移っても往事の幅のまま不便を囲っていたのを麓宝園の開園にあわせて私財を投じて改修した。さらに西又から河野への林道が広域基幹林道として整備される事になったが、その際に富田氏の事業を継承した(株)佐川急便が多額の寄付をして一帯の全面舗装にこぎ着けた。西又には基幹林道開通記念碑が建てられ、碑文には「佐川急便会長佐川清寄贈 土佐山田町長町田守正書」とある。西又には佐川急便の宿泊研修所が建設され、新人教育や社員研修の場として使われている。事情を知らぬ者には「なぜこの山奥に佐川急便の研修所?」という疑問が出るが、以上の経緯を知れば納得がいく。
かつて富田氏が愛郷の念に燃えて建設した麓宝園も今はなく、わずかに残る数軒の家が分村編入の厳しさを物語っていた。