成山小学校(伊野町)  なりやま   へき地級2(1978)
  旧神谷村立成山小学校として設立、合併で伊野町立改称後、1984(S63)年に休校
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53)
在籍児童数   46 33  21  11 



 伊野町中心部から国道194号線を仁淀川沿いに走り、神谷中学校脇を右折し山腹を駆け上がるように走ると成山地区に着く。このほかには伊野町中心部から槇地区を経て山沿いに来るコースと北の中追から来るコースがあるが、いずれにしてもせまい車道である。成山小学校跡には「七色の里」という交流施設が建てられていて、記念碑も見あたらないので学校の面影は薄い。

成山小学校跡に建つ「七色の里」

 訪問は2004(H16)年3月、槇地区から仏ヶ峠を越えて行った。仏ヶ峠には和紙伝承にまつわる新之丞の碑がある。伊予出身で、成山で抄紙の術を伝えて七色紙を作りだした新之丞の帰国を防ぐために斬り殺したという悲しい伝説の残る場所である。このように成山は和紙の生産で名をはせた地区で、太平洋戦争開始前までがその全盛だったという。どの家にも紙漉き場があり、和紙だけで生活が出来た。規模の大きな家になると、和紙の売上金が入った後は高知市の遊郭へ行ったまま1週間帰ってこないなんて事はざらにあったそうだ。
 成山小学校には山向こうの北成山からも通っていたそうだが、明治から昭和の初めには山向こうの梅の木尋常小学校(鏡村=現高知市)に通っていたという。当時は神谷や伊野よりも山越えで鏡村との交流が活発だったそうである。このことは今回成山で聞くまでまったく知らなかった。和紙は急速に廃れ、紙幣廃止もあってこの地域は急速に過疎化が進んだ。相前後して昭和の大合併があり、神谷村は伊野町に吸収合併された。元々地理的な条件もあって神谷村本村よりも伊野町や高知市との交流が多かったこの地区はどうしても後回しになったことは否めない。手持ちの1978(S53)年高知県教職員名簿によると在籍児童数は11名となっている。訪問時点での旧校区内の児童数は1名、他に幼児1名がいる。

右下が学校跡

 上の写真を見てほしい、ところどころにある茶色い杉林はかつて人家もしくは田畑であった。また竹藪も同様で、この山には炭焼きに使う広葉樹以外はすべて土地として活用されていた。山を下りる時、跡地を整理して杉を植えて出て行く例は多いが、結果的に放置された杉が日照を妨げ、さらに放棄される土地を増やす悪循環に陥っている。この地区で一番の若手は60歳だという事実、これが成山に限らず中山間部のおかれた現実である。
 
 訪問時に聞いた梅の木への通学が距離的にも地理的にも今ひとつひっかかっていたのだが、調べてみると1889(明治22)年から1928(昭和3)年まで土佐郡十六村に属していたことがわかった。わずか39年間であるがその名の通りこの周辺の16集落が自治体となっていたのである。1891(明治24)年の人口が3,732人、主に鏡川中流域右岸の13集落に加えて尾根を挟んで成山・中追・槙の3集落が加わっていた。その後交通事情(要するに相互間の車道がなかった)もあって分村し、鏡川右岸の集落は鏡村・朝倉村(ともに現高知市)、成山と中追は神谷村(現いの町)、槙は伊野町(現いの町)に編入されている。