京法小学校(宿毛市) きょうほう
旧橋上町立橋上小学校京法分校から宿毛市立京法小学校として独立後、1981(S56)年に橋上小学校に統合
児童在籍数
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1978(S53) | |
京法小学校 | 16 | 17 | 8 | 12 |
京法小学校のあった京法へは宿毛市橋上から市道を走ること約7Knで到着する。
2008年訪問時の京法小学校
2015年訪問時の京法小学校
訪問は2015(平成27)年の5月、実際には二度目の訪問となる。前回2008(平成20)年に撮影したデータが一枚を残して消失してしまい、7年ぶりの再訪問となった次第である。
人気のない京法集落を過ぎると右カーブの先に藪に埋もれつつある校舎が見えてくる。還住藪(げんじゅやぶ)で聞いた話では運動場が林道開設の土砂捨て場になったので市道と同じ高さになっているが元々は校舎と同じ高さだったそうである。玄関前には「学校建設記念」(学は旧書体)と書かれた記念碑が建立されている。廃校から30年少々経っているが校舎自体は外見上それほど傷みもなく、往事のままのようである。
学校玄関
記念碑
京法小学校の開設は1884(明治7)年に設立された京法家庭教育場に遡る。これは公設ではなく私設であったが2年後に橋上第一尋常高等小学校京法分校となり、戦後教育制度で橋上村立橋上第一小学校京法分校になった。宿毛市発足により宿毛市立に改称した後1977(昭和52)年に宿毛市立京法小学校として独立、1981(昭和56)年に橋上小学校に統合された。分校時代が非常に長く独立校としてはわずか4年の歴史であった。
校区は明治時代から変わっていないようで京法・還住藪の2集落、宿毛市史によると少なくとも両集落ともに16世紀からの居住が確認されている。京法は江戸時代から明治時代にかけて100人前後の住民がいたが現在は2世帯3人となっている。還住藪は京法からさらに3kmほど上流になるがこちらは現在も7世帯17人が住んでおり、高校生もいる。この地域も基本的な生活パターンは家回りの田畑で主食の米や野菜を栽培し、現金収入は林業となっていたそうである。林業がダメになってしまい、さりとて農業で生活ができるほどの田畑はなくどんどん人がいなくなったという話であった。