黒滝小中学校(南国市) くろたき
小学校 旧上倉村立第三小学校から合併で後免町立→南国市立に改称後、1978(S53)年に廃校
中学校 旧上倉中井の沢分校から合併で後免町立黒滝中学校→南国市立に改称後、1967(S42)年廃校
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1977(S52) | |
児童数 | 74 | 70 | 15 | 2 |
生徒数 | 33 | 46 |
黒滝地区は南国市が大きく北に伸びた部分にあたる。完全な中山間部にあたり現在でも交通事情は良くない。南国市領石で国道32号線と別れ奈路を経由して2つの峠越えをするか、国道32号線を北上し土佐山田町(現香美市)繁藤から穴内川を遡るかになる。厳密にはもう一つ土佐山村(現高知市)高川から林道があるが私設林道のため通行は不可能である。
校門跡
訪問は2007(平成19)年2月、奈路から峠越えをして行った。このルートは27年前に自転車で走った事があるが、拡幅や改良がほとんどされておらず狭い山道のままである。2つめの峠を下りきって穴内川にぶつかるがそこで右折、すぐ先に「青藍の里 黒滝青少年研修所」の看板が見えてくるがそこが黒滝小中学校跡である。10年ほど前に小学校校舎や体育館が取り壊されているが中学校校舎は改造されてそのまま研修所となっている。敷地の片隅に校門跡が保存されている。
黒滝小学校の歴史は1892(明治25)年に設立された上倉第三小学校に遡る。所在地は黒滝ではなく井ノ沢集落内で、現在地よりも西南西に約2km少々上流にあった。戦後もそのまま上倉村立で、1947(昭和22)年には上倉中学校井ノ沢分校が併設された。1956(昭和31)年、昭和の大合併による南国市誕生前の準備段階で上倉村が後免町に合併した際に黒滝(現在地)に移転、中学校はやや遅れたらしいが黒滝小中学校と改称している。このときには中学校本校であった上倉中も白木谷中に改称している。校区は中ノ川・黒滝・桑ノ川・大改野の4集落になるが、1957(S32)年の後免町発足直後の記録では児童74人生徒29人合計103人の児童生徒がいたとある。もっとも地元住民の話ではその数年前には120人を越えていたという。訪問前年の地区内の住民は31名となっており、児童生徒数はゼロである。実際のところ、仮に児童生徒がいたとしても距離的にも時間的にも土佐山田町(現香美市)の繁藤小中学校へ越境通学するほうが楽だと思われる。
かつて中ノ川には営林署事業所があり、桑ノ川にはマンガン鉱山があった。中ノ川からは土佐町に抜ける中ノ川越えという街道があって、土佐藩の参勤交代路であった北山越えと至近距離にあることから人馬の往来が絶えなかった。『土佐国群書類従拾遺』という江戸時代の書物には中野川での産物が詳細に記されているが、これは現在の中ノ川にあたる。
中ノ川には営林署関係の官舎があり、他の集落にも営林署関係で働く人々が各地から集まっていた。桑ノ川はその名の通り桑が川のように植えられており、養蚕も盛んであった。マンガン枯渇のあと穴内ダム完成による水没で黒滝周辺の住民が移転、さらに林業不振で営林署閉鎖と人々はあっという間に山を去った。ここでも集落崩壊は際だっており、既に地区崩壊ともいえる惨状である。
1947(昭和22)年の現行教育制度以降の廃校休校を取材している以上、井ノ沢集落にあった移転前の学校跡も確認しておきたかった。何度か訪問したのだが井ノ沢は既に無人の集落となっており、時折通いで農作業や山仕事に訪れる元住民がいる程度でなかなか場所の特定ができずにいた。諦めずに時々訪問していたが2016(平成28)年12月にやっと現地で元住民の方に会うことができた。学校跡は予想通り右手の石垣の上であった。既に60年が経っており、学校跡地を偲ばせる物は何もなく、当然記念碑もない。
石垣
学校跡地(右側が石垣)