木積小学校(北川村)  こつも  へき地級1
  1975(昭和50)年に廃校
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43)
児童数 82  50  24 



 北川村中心部の野友から国道493号線を奈半利川沿いに遡る。2kmほど走って国道と分かれて左の支流に入り、県道206号西谷田野線を走りさらにその先の二股で右折する。右手の小高い集落の中に木積小学校跡がある。廃校後30年余経ち、現在は集会所になっている。北川村史によると1868(明治元年)年から木積・宋ノ上・西谷・長山を教員が巡回していた。1897(明治30)年に北川尋常小学校木積分教場が設立され、前述の4地区が校区となった。その後78年の歴史を刻んで北川小学校に統合されている。



 訪問は2007(平成19年)4月、連休ということで懸念していた混雑も野友のモネの庭周辺が少々車が多かった程度であった。学校の場所がわからず何度か往復してやっと辿り着く。散歩をしていた老人に話を伺うと校舎は半分取り壊されて集会所になったそうで、かつては写真のちょうど左いっぱいまで校舎があったそうである。1950(S25)年頃には150人を越える住民がいて、その前後には児童数が100人ほどいたそうである。昭和34(1959)年版の「全国学校名鑑」では3教室82人(データは前年度)となっており、複式学級だったことがわかる。。
 校区内は半農半林とでも言うべきか、小学校周辺は比較的平坦地も多く水田もあるものの専業にまではならず林業兼業で生計を立てていたそうだ。大正時代に木積地区の下流にダムが築かれ、長山発電所が発電を開始している(現在の長山発電所とは別の施設)。魚梁瀬への森林鉄道支線が西谷口駅から分岐して上流にあった西谷事業所まで地区内を走っていたが、奈半利川電源開発工事に伴い1958(S33)年に本線と共に撤去されて車道になった。この頃から人口が一気に減りだしたらしい。訪問時点で6世帯11人、児童生徒ともにゼロとなっている。

追記:2016(H28)年3月27日付けの高知新聞によると高齢者ばかり6人の集落になっている。