奈半利小学校米ヶ岡分校(奈半利町)  よねがおか   へき地級2(1978)
  1994(平成6)年に本校統合
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53)
児童数 32  21  12 


米ヶ岡分校は奈半利町の北東部、野根山街道沿いの台地にあった小さな分校であった。海沿いの奈半利町中心部から標高450mほどの米ヶ岡へは次の3つのルートがある。北川村との境になる車瀬から中山林道経由、中心部東外れから長谷川沿いに上る、中心部南東の六本松から上る、以上のルートである。

 最初の訪問は2005(平成17)4月の上旬、いずれにしろ山へ駆け上がることになるが、とりあえずは2番目の教育委員会で教えてもらった長谷川ルート、中心部東を北に折れ、新興団地内を右折して谷沿いに上がる。改良工事が進んでいて思ったより広い道である。かつて米ヶ岡分校の卒業生や住民はこの近くの山道を歩いて奈半利中学校へ通ったり、買い出しに出かけていたそうだ。米ヶ岡分校の最大在席児童数は30名程度、池里への開拓移住者がピークだった1950年代後半だったらしい。奈半利小学校校史によると1936(S11)年に現在地に移転、1989(H1)年に改築とある。

 木造民家風の校舎は廃校後は奈半利町の運営する青少年の自然体験施設となっている。田舎のちょっと大きな屋敷という感じの(学校としては)こぢんまりした造りである。地元の奈半利小中学校児童生徒の通学合宿や田植え体験、各種団体の研修などに利用されている。学校跡から振り返ると土佐湾、北を見ると魚梁瀬方面から徳島県境の山々が一望できるすばらしい景観である。かつてこの地を通って野根山街道が越えていたが、今でも「四国のみち」として整備されハイキングの客が絶えることはないという。

 もともと米ヶ岡集落は江戸時代に開墾開拓されて20戸余の集落になったそうである。標高を生かした良質の米を生産し、土佐藩主の御膳米に献上されていた。第二次大戦終了後に南西部が戦後の国策事業として行われたいわゆる戦後開拓事業の対象地区となり、開拓部落として池里集落ができた。この2部落の児童が米ヶ岡小学校に通学していた。高知県内にも相当数の開拓集落が出来たのだが、現存する数少ない開拓集落が池里である。米ヶ岡は尾根筋にあるわりには水が豊富で、米作と林業が中心であった。池里は土壌の問題もあって農業には不向きだったため養豚・養鶏・養蚕が中心だったが、少しずつ離農して今では放置された機械や施設があちこちで錆びている。いずれにしろ、北風が強く吹き付ける地形のおかげで冬は非常に寒いが、逆に夏は湿った南風が吹くので思ったほど涼しくなく、農業を営むうえで気苦労が絶えないそうである。平地では散った桜がまだ残っているのは標高のせいと思っていたが、そういう理由もあるのかもしれない。

 
 米ヶ岡分校跡