河野小学校(香北町)  こうの
  旧暁霞村立河野小学校として設立、合併で在所村立・香北町立に二度改称移管後、1977(S52)年に廃校
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43)
児童数 24  15  28 


 香北町中心地である美良布から物部川を渡り、川ノ内川沿いの狭い谷筋を北上した一番奥の集落が河野である。学校は河野という名前だが、実際には河野より下流の河茶という集落にある。廃校後既に30年近く経つが、校舎や校門がそのまま残っている。学校の歴史は1872(明治5)年の尋常小学校に遡ることになり、105年の時を刻んでその歴史を閉じた。
 香北町史の記述では1948(昭和23)年に初めて大運動会が開かれ、大勢の人手で賑わったとある。校舎改築に備えて地区共有林10町を学校財産に無償提供したこともあり、文字通り地域のシンボルとしてかけがえのない存在であったそうである。



 訪問は2005(平成17)年3月、香北町役場で聞くと河野集落には現在住民がいないそうである。「全部植林になっているので家があった場所ももう定かでないでしょう」と教えてくれた。所用の関係で土佐山田町繁藤から山越えをすることになった。繁藤からは西又小学校跡を通って林道を走ることになるが、かつてこの西又と河野は同じ暁霞村の行政区域であった。昭和の大合併で一度は在所村に合併されたものの、地形的要因などで最終的に分離合併を選択し西又地区は土佐山田町に編入された経緯がある。
 この林道を10年前に自転車で走破したときは半分が未舗装の荒れた道であったが、今回は完全舗装となっていた。注意しながら下ったのだが、やはり河野集落跡はわからないままに河茶集落に到着した。人家が数軒あり、そのうちの一軒から煙が上がっているので声をかけて話を伺う。校区は河野・河茶・川の内・松尾の4地区あって、廃校時にも10人ぐらいの児童がいたそうだ。林業が盛んだった頃には30人近くの児童がいたというが、現在では校区内に住んでいる人が5人いないという。
 中学生になると美良布へ10キロ以上も徒歩で通ったそうで、「歩いてですか?」と聞くと当時は自転車で通えるような道もなく、自転車を買う経済的余裕もなかったそうである。学校統合の条件としてタクシーによる送迎があり、林道が開設され自動車の乗り入れができるようになった。マイクロバスが走れる状況ではないのでタクシーが利用されたそうである。タクシーはどうしても贅沢という意識があり、気が咎めるという話をよく聞いたそうだ。同じ頃に越知町大平でもタクシー送迎があり、当時の父兄からまったく同じ話を聞いた。
 結果的にこの林道開設が引き金となり、急に人がいなくなったそうである。