鏡第四小学校(鏡村)  かがみだいよん   へき地級1(1978)
  1983(昭和58)年に鏡小学校へ統合

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53)
児童数 56  49  26  12 



 梅ノ木にある鏡第四小学校跡には村役場から北進し鏡川を渡って左折、そのままずっと直進して畑川分校跡の先でヘアピンカーブを道なりに進む。高知市からはむしろ行川から山沿いに来る方が早い。他にも伊野町から県道を来る方法と蟹越がある。後者については後ほど紹介する。
 訪問は2004(平成16)年3月、現在は校舎・体育館をそのまま梅ノ木公民館として利用している。鏡村教育委員会でいただいた案内マップではP7台・炊事施設・簡易プール・集会所30人と和室10人までの宿泊可能と書いてある。平成14年に行われた高知国体では男子ソフトボールの会場となったので、ここも宿泊所として利用されたのだろう。すぐ脇には町営住宅があり、作者が学校跡を撮影しているとちょうどスクールバスで児童が帰って来た。親の世代には目の前の学校に通う時代もあったのだろうが。そんな思いを抱きながら蟹越へと向かう。

左奥の山が蟹越

 梅ノ木からは前述のようにいくつかのルートがあるが、蟹越(がにごえ)について。名前の由来は定かではなく、蟹歩きを強いられる難所であるとか古代に蟹が列を成して登っていったがその直後に地震が起きた(おそらく南海地震のことだろう)といった説がある。今でこそ車道が通じたがつい15年ほど前までは廃れた旧街道であった。作者は1979(昭和54)年と1981(昭和56)年の二度に渡ってこの蟹越を自転車を使って越えている。最初は梅ノ木から中追へ二度目は逆に越えた。当時は廃れたとはいえ、梅ノ木側はほぼ峠まで棚田で耕作がされており、中追側(正確には郷の谷)もかなり上部まで踏み跡が残っていた。峠のすぐ下の梅ノ木側には夜泣き岩と呼ばれる大岩が水田の中に座っている。峠越えの最中にこの岩の上で産気づき、同行していた夫が人手を呼びに行った間に出産、その血の臭いを嗅いだ狼に食べられた親子の泣き声が夜な夜な聞こえるという伝説の残る岩である。
夜泣き岩
 夜泣き岩とは1981(昭和56)年以来、23年ぶりの対面になる。23年前は水田の中に座っていたのだが、今は荒れ果てて放棄された藪になっている。旧往還は写真の奥の谷間にあったのだが、残念ながら藪に覆われ進むことはできなかった。ここも峠には地蔵さんがあったのだが、それも発見できない。さすがに細かい記憶も薄れている上に、日没となりとうとうわからなかった。ここから中追へは断崖の険しい道だった記憶はあるが、車道は別ルートをとっておりその踏み跡もわからなかった。
 1979(昭和54)年に来た時の記憶では梅ノ木で「もともとこのあたりは成山や郷の谷と交流が盛んで、蟹越えに車道をつけると県議会でも取り上げてもらったけどそのままになった」と聞いた。しかしその後作者が高知を離れている間に車道は完成し、旧往還は訪れる人のいないまま消え去ろうとしている。夜泣き岩だけが変わらずに時の流れを見守っている。

 その後の調査でこの地区は1989(M22)年から1928(S3)までの間、土佐郡十六村に属していたことがわかった。主に梅ノ木などの鏡川中流域右岸の13集落と西の尾根を挟んだ成山・中追・槙の3集落が加わってその名の通り十六の集落が自治体となっていた。その後交通事情(尾根を挟んだ車道がない)などもあって分村となり、鏡川右岸の集落は鏡村と朝倉村に編入されたが2回の市町村合併を経て今は同じ高知市に属している。成山・中追は神谷村、槙は伊野町を経て同様に2回の町村合併を経て現在はいの町に属している。