上西小学校(いの町=旧吾北村)  じょうさい
  組合立上西小学校として設立、その後1951(昭和26)年廃校
    

  画面中央の竹林手前の高台に学校があった
(軽トラの後ろから右に旧道が分かれており、学校跡は道路拡張で消滅したことがわかる) 

 吾北村史を読んでいると戦後の教育課程の中で上西小学校という名前が一瞬紹介されている。ところが吾北村教育委員会でいただいた資料ではこの名前が見あたらない。吾北村に出かけて調査してみるとやっとその所在がわかった。上西小学校は旧吾北村合併前の旧上八川村西川にあり、旧上八川村と旧清水村との共同で設立された組合立であったが、校区内の児童数変化などにより戦後まもなく廃校となり下流に新設された三水小学校に引き継がれた。しかしその三水小学校も2001(平成13)年に休校となったために、上西小学校の正確な歴史や児童数の経緯が不明である。また廃校4年後に合併によって旧吾北村が誕生しており、そういった事情が重なって詳細な情報がわからなくなっている。
 上西小学校へは旧吾北村の中心地であった思地から国道194号線を北上し、四国電力の分水発電所の先を左折する。川沿いに数キロ走って三水小学校への分岐を直進し、その先で大きく反転して坂を駆け上がった先になる。もっとも現在は道路の拡張によってまったく痕跡は残っておらず、探し当てるのに苦労した。集会所の先で旧道が分かれているが、旧道のカーブから一段上に学校があったという。拡張前は校庭や金網も残っていたと言うが、今は写真を見てもわかるように何もない。
 集会所脇の民家の方が幸いにも卒業生で、話を伺ったが戦前で一学級20人足らずだったそうだ。平地がほとんだない地形のため、収入になるものは楮三椏と木材・木炭しかなかった。当然のこと、戦後の山村無策のおかげでここも壊滅状態に近いものがある。いたるところに廃屋と放置された人工林・畑が点在する景色がここにもある。