猪野々小中学校(香北町)  いのの   へき地級1(1978)
  旧在所村立在所第二小学校として設立、猪野々小学校に改称後合併で香北町立に改称、2002(平成14)年に休校
   旧在所中学校猪野々分校として設立、分校から独立後に合併で香北町立に改称後、1967(昭和42)年に廃校 


  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53) 1998(H10) 2000(H12)
児童数 182  91  70  30  11 
生徒数 75  81         



 国道195線を東に走り香北町の中心地である美良布を過ぎ、数キロ走って猪野沢温泉の看板に従って物部川を渡り途中に清爪小学校跡を見ながら走るとやがて猪野々集落に着く。猪野々小中学校跡は集落の真ん中にある。猪野々小学校は1872(明治5)年に猪野々尋常小学校として設立され、その後在所第二小学校となっていたが1950(昭和25)年に猪野々小学校と改称されている。130年ちょうどの歴史を刻んで2002(平成14)年に休校となり、2005(平成17)年3月をもって廃校手続きがとられた。猪野々中学校は当初在所中学校の分校として小学校に併設された。その後独立したものの併設のままであったが、香北中学校新設に伴って廃校となった。



 訪問は2004(平成16)年12月と2005(平成17)年4月の二回になった。これは香北町の休廃校情報を聞きに伺った香北町教育委員会から「あと数日で校舎を取り壊しますよ」と教えて貰ったので取り急ぎ写真だけを撮影した次第である。県内でも数少なくなった木造の校舎であったが、敷地が一部賃借ということもあって年度一杯での廃校になって取り壊しとなったようだ。
 猪野々小学校の手前には猪野沢温泉があったが、近年火事で焼失してしまった。猪野沢温泉は与謝野晶子が「最後の万葉歌人」とたたえた吉井勇が再起にむけての大きなきっかけを掴んだ場所である。吉井勇は1886(明治19)年生まれ、生家は伯爵家。雑誌「明星」でデビューを飾り、北原白秋、木下杢太郎(もくたろう)らと耽美(たんび)派の拠点「パンの会」を興す一方、石川啄木らと文芸誌「スバル」を創刊。気鋭の歌人として将来を嘱望されたが、家庭内の不和や実家の没落なども重なって、一転、失意と人間不信にさいなまれる。失意の中、1934(昭和9)年に知人らの協力で猪野々に草庵「渓鬼(けいき)荘」を構え、約三年間ほぼ自給自足の生活を送った。吉井が「私は一種の人間修業をすることが出来て不遇時代のさすらいの身から再び起(た)ち上がることが出来たのであります」と後に語ったように、見事な復活を遂げるのである。現在猪野々に吉井勇記念館が建てられ、その功績と猪野々との関わりを知ることができる。吉井がいた猪野沢温泉と学校は数百mしか離れておらず、失意の彼に子供達の声はどう聞こえたのだろう。