平田第二小学校(宿毛市)  ひらただいに    へき地級1(1975)
  旧平田町立平田小学校上野分校から独立改称したが1978(S53)年廃校
 
在籍児童数

   1958(S33) 1963(S38)  1968(S43) 
平田第二小学校   72 44  12 



Heyanekoさんから情報提供があり閉校時期と最大児童数を修正いたしました

 平田第二小学校跡へは中筋川ダムを過ぎて黒川大橋を渡り、トンネルをくぐった先で県道と分かれ右折する。ここから学校跡までは3km足らずになり、途中中筋川ダムの関連事業で作られた蛍湖ゴルフパークを過ぎて右手に集会所のある空き地が見えてくるがそこが学校跡である。

 作者の自宅からは車で3時間足らずということもあり、なかなか出向く機会のなかった場所であるが2012(H24)年からちょうど中筋川ダム周辺に年一回は仕事で行くことになった。必ず1週間という期間もあり、なおかつこの平田第二小学校校区内での仕事もあるので現地を訪れて少しずつ情報を加えていくつもりである。

 最初の訪問は2008(平成20)年の11月、中筋川ダムを過ぎるとまったく人気が途絶えはじめ、かろうじてゴルフパークの事務所があっただけである。平田第二小学校は前述のように元々上野分校から独立しているが、その歴史は1900(明治33)年にまで遡る。当時の平田小学校上野分教場として設立、長い間分校であったが1958(昭和33)年に独立して平田第二小学校となった。この際本校であった平田小学校も平田第一小学校に改称されている。校区は久礼の川と久礼広の2地区、児童は最大で1960(S35)年に51人を数えているが、いずれにしても複式学級の小さな学校であったらしい。地区内は元々過疎化が進んでいたことと、中筋川ダム建設による立ち退きが重なり急激に住民が減ったらしい。久礼の川と久礼広地区を回ってみたがまったく人の住んでいる気配がなかった。かろうじて一人山林作業をしている方がいたので確認したところ、おそらく住民はいないだろうということであった(後日宿毛市役所に確認したところやはり皆無という回答であった)。平田小学校に確認したところ、少なくともこの20年は平田第二小学校校区からの児童はいないということであった。
 休校からほぼ30年近い時が経ち当然校舎はなくなっている。わずかに鉄棒が残っているのみ、よく見ると砂場らしき跡も見受けられる。実質的な地区消滅で集会所自体も使われることがなくなっている。国土交通省発行の1975(昭和50)年の航空写真で確認したが、ちょうど写真左端に校舎があり、今の集会所付近にも建物が見えるがおそらく教職員住宅ではないだろうか。学校の前後にも人家がいくつかあるが、訪問時にはすべてなくなっていた。写真ではゴルフパークのある場所に畑と人家がいくつか見受けられ、その後の訪問では実際に墓も現存しており新しい手入れのあともあった。
 その後の訪問では偶然墓参りに訪れている方と話す機会があり、最終的に中筋川ダムの建設に伴って全員離村になったことや多くは宿毛市中心部や中村市(現四万十市)具同などに引っ越したことがわかった。学校跡より上流では戦後の開拓政策で入植した者も多く(次男三男がほとんど)残す墓もないので離村は簡単だったらしい。この地区の命運を決定づけた中筋川ダムは1972(S47)年に予備調査が始まり、1984(S59)年に基本計画告示と工事用道路建設着手とされている。完成竣工式は1998(H10)年だが試験湛水開始が1995(H7)年なので実質的にはこの時点で完成していたことになる。既に学校閉校数年でかなり離村が進んでいたらしく、ダムの補償交渉もダム下流の黒川地区に任せる形になっていたとのことである。
 自家用のコメを自宅周辺で栽培し、林業か主に麦や甘藷を現金収入の糧にしていたが貿易自由化で真っ先に暴落したのがこの品目で あった。農林業に見切りをつけて宿毛市や中村市に働きに出るようになり、やがて職場近くに引っ越すというパターンが相次いだそうである。

 2016(H28)年6月に訪問した際には地区内の一番奥で田植え作業をしている方と話す機会があった。電線を見ながら車を走らせたのだが、ここまで三相の動力線(200V)が引いてあるので一番奥まで来たことを伝えると今でも通いで農作業を行っており、元住民同士で共同で倉庫を建てた事を教えてくれた。動力線については稲の乾燥機などに使用するので移転後に引いて貰ったそうである。1960年代の後半から徐々に人が減っていたが、当初20戸少々のうち9戸は中筋川ダムの補償交渉には無関係であった。他の住民は家が水没するか田畑・山林がダム湖にかかっていたので補償を貰ったがその際も「移転後は居住しない」という確約をしたそうである。直接ダム湖の影響を受けない(要するに国土交通省の管理地域外)田畑については通いで耕作する許可は得たとの事であった。実際に久礼の川橋から上流では田植えがすんだばかりの水田がいくつも見受けられ、手入れのされた畑とともに獣害防止の電気柵があちこちに張り巡らしてあった。