名野川小学校(吾川村=現仁淀川町) なのかわ
旧名野川村立名野川第一小学校として設立、合併で吾川村立・仁淀川町立となり2012(H24)年3月に休校
名野川小学校は吾川村発足時に合併した名野川村の中心地にあった。国道33号線を高知市方面から行くと名野川地区を見下ろす高台に学校が見えてくる。名野川村には現在の教育制度となって合併するまでの1947(S22)〜1955(30)までの間に名野川(名野川第一)・長渕(名野川第二)・上名野川・下名野川と4つの小学校があったが、最後まで残っていた名野川小学校が廃校となりとうとうゼロとなった。
仁淀川対岸から見た名野川小学校
訪問は2013(H25)年の8月、実は昨年春にも訪問予定で先に仁淀川町教育委員会を訪れたところまだ閉校式も行われず記念誌も制作中と聞きそのまま帰った。その後2012(H24)年11月に閉校式が行われたので合間を見ての再訪問となった。たしかに前回はなかった閉校記念碑が玄関前に建立されており、廃校となったことをあらためて実感させられる。1885(M18)年に名野川小学校として設立され、二度の町村合併を経て名野川村立→吾川村立→仁淀川町立と改称された。そして2012(H24)年度内に廃校手続きが完了し2,553名の卒業生を送り出し128年間にわたるその歴史を閉じた。
この数年間、仁淀川町内で学校再編が検討されてはいたが町内3中→2中が正式決定されただけだった。内々では生徒数の一番少ない名野川小学校を旧吾川にあたる大崎小学校に統合する計画もあった。ところが2011(H23)年暮れになって地元父兄から本年度限りでの休校と大崎小ではなく旧仁淀村になる別府小への統合要望が出された。わずか半年にも満たない期間での休校要望は極めて異例だったらしいが、結局地元の要望通り別府小への統合となった。前述のように閉校式や記念誌の作成が大幅に遅れたのはそのためである。訪問した際に地元住民からそのあたりの詳細も聞かせて貰ったのだが、さすがに今の時点ではここに書くことができないややこしい事情もあった。
在席児童数のピークは1940(S40)年の名野川国民学校(初等科)時代で374人の児童がおり、この頃は旧名野川村地区だけで1,000人近い児童がいたという。和紙原材料の楮・三椏の生産と林業・炭焼きが盛んで、旧国道沿いには商店や旅館・料亭が20軒近く営業して人の往来は夜中まで絶えることがなかったそうである。
校門にはまだ名野川小学校の看板が残る
校舎とプール(近くの中津渓谷の水だったらしく夏でも寒かったと)
校庭は地形の関係で一段低い